百人一首
【原 文】嘆けとて月やはものを思はする かこちがほなるわが涙かな
【上の句】嘆けとて月やはものを思はする(なけけとてつきやはものをおもはする)
【下の句】かこちがほなるわが涙かな(かこちかほなるわかなみたかな)
【決まり字】3字決まり「なけけ」
超現代語訳
「もう会えないワ」なんて、月は言ってない。この涙は貴女のせいで流れているんだ。
歌のポイント
- 元エリート北面の武士の歌
- 最期は美しく散った人物の歌
- 鳥羽天皇の奥さま・待賢門院璋子に恋焦がれた切ないイケメンの歌
歌の情景
この歌は、「月に向かう恋心」をテーマに詠んだ歌です。美しい月を見ていると涙が流れて来ちゃうけど、この涙は月のせいではなくて、もう逢えない愛しい人を想って流れている涙なんだと歌い上げています。当時、西行は武士で17歳年上の鳥羽天皇の奥さま・待賢門院璋子に、恋をしてしまいました。この叶わぬ恋の悲しみと切なさを詠みあげています。
語意
【なげけとて】嘆けと言って。
【月やはものを思はする】月が私に何か思わせるのか、そうではない。
【かこち顔なる】かこつけるような顔つき。月が何か思わせるわけではないのに、月のせいにしている顔をする。
【わが涙かな】自分の流す涙。「かな」は詠嘆の終助詞。
歌の分類
【歌集】千載和歌集
【歌仙】-
【テーマ】恋の歌
【50音】な音
歌を詠んだ人物
【作者】西行法師(さいぎょうほうし)
【性別】男性歌人
【職業】僧侶(現代職業:お坊さん)
【生年】1118年(元永元年)
【享年】1190年3月31日(文治6年2月16日)
西行法師(さいぎょうほうし)は、出家前の名前を佐藤義清(さとうのりきよ)といい平安時代後期から鎌倉時代初期に生きた人物です。父は、左衛門尉(さえもんのじょう)の佐藤康清(さとうやすきよ)で、祖父の代から徳大寺家に仕えていました。徳大寺家の歌会に招かれ、若い頃から歌人としての才能を発揮していました。
17歳の頃に、超エリート集団である北面の武士に選ばれます。北面の武士とは、イケメンだけがなれる白河法皇の御所を警備する仕事で、平清盛(たいらのきよもり)とも一緒に働いていました。しかし、23歳の頃に妻子と別れて出家し、西行と名乗りました。妻子がありながら叶わぬ恋を嘆き苦しみ仏教の世界へ心の救いを求め出家したのです。その叶わぬ恋の相手は17歳年上の鳥羽天皇の奥さま・待賢門院璋子でした。
そして日本各地を旅しながら歌を詠み、璋子への想いも色褪せず続いていたと言われています。
日本の美しい風景を歌にし、後世の歌界に大きな影響を与えた人物で、勅撰集に266首収められています。
また「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ(願いが叶うならば、春に桜の花の下で死にたいな。2月15日(旧暦)の満月の頃に)」という歌があります。実際に西行は、この願った日の1日後の文治6年2月16日に亡くなりました。詠んだ歌の通り最期は美しく旅立ちました。